本間宗究(本間裕)のコラム

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2022.6.18

論語の従心

論語では、70歳が「従心の歳」、すなわち、「心の欲するところに従えども矩(のり)を超えない境地に達する年齢」とも言われているが、この点には、より深い理解が必要なものと感じている。つまり、私自身の「心の仮説」では、「肉眼と心眼を分ける必要性」が存在するとともに、「年齢を重ね、数多くの苦難を経験することにより、肉眼(目指すもの)と心眼(志すもの)とが一致するような心境」にまで達するものと思われるからである。

別の言葉では、若いころに大きかった「肉眼と心眼との差」が、苦難を経験することにより、徐々に縮まっていく展開のことであり、このことが、「ヘーゲルの指摘する弁証法」であり、また、「仏教が教える悟り」とも考えている。つまり、「悟り」は、神と人間との「差取り」に通じ、仏教の「成仏」という言葉のとおりに、誰でも、「動物的な本能」を脱却しながら、「仏様のような境地」に達することが可能とも理解されているのである。

ただし、この時の条件としては、「輪廻転生」という「数多くの生れ変り」が必要とされており、決して、「王道」のような「安易な方法」が存在しないものと考えられているのである。つまり、「現世において不平等と思われる事実も、輪廻転生を考慮すると平等になる可能性」が想定できるわけであり、この点については、「積善の家には余慶あり、積不善の家には余殃あり」という言葉のとおりに、「自分の霊的な生れ変り」のみならず、「子孫の運命」にまで影響を与えるものと理解されているのである。

より具体的には、「ヒットラー」や「プーチン」などのように、「現世で権力を掌握し、独裁的な地位にまで上り詰めた状況」に関して、「来世の運命」や「子孫の幸福度」を考えた場合には、「決して、満足できるような状況」とは言えないものと思われるのである。つまり、「大きな反動が訪れることにより、結果として、平等な状態になる可能性」のことでもあるが、彼らの存在に関して、歴史的な観点からは、やはり、「人類全体に、独裁者の脅威を知らしめる役割」が存在した可能性も考えられるのである。

別の言葉では、「人類全体に、気付きや覚醒を与える役目」という可能性のことだが、この点については、「過去の歴史を振り返りながら、より深い吟味が必要な状況」とも言えるようである。つまり、「人類が、肉眼で、どのような時代を望んだのか?」、そして、「一方で、心眼では、どのような展開が見えていたのか?」などを考えながら、「過去の数千年間に、人類が、どのように進化したのか?」、あるいは、「これから、どのような時代が訪れるのか?」などを、深く研究することである。